昭和50年?月?日 特別奉修委員 ●②       テープ№50-078B面-2
         
                       【入力者:梶原佳行】



 只今あの、指し出の久保山さんが、お届けをされます。まぁ色々と有り難いことをいっぱい頂いておられますが。●②その中に、沢山な菊の花をもう、重たいようにこう頂いて。でそれにこう水を、さか水ですかね、掛けておるところを頂いて。だからもうそこだけで良いね、ていうたことでしたけれども。
 菊の花といやまぁ合楽の信心ということでしょう。もう一番有り難い、生粋の有り難い、合楽の信心でしょう。だから、あの特にならこうしてあの皆さんの特別奉修をなさるような方達の場合なんかは、もう一人一人、皆もう重たいくらいに、菊の花はもっておられると思うですね。●
 私はあの、先日告別式のその後に、お礼に、善導寺にでらせて頂きましたら、こちらが沢山菊の花を、やら他の色んな花を差し上げておったわけです。それを霊神様のこんな大きな坪に、もうそのまま、ポンといれて、入れてから、霊祭の前にお供えしてございましたですけれども。もうかえって見苦しいですね。あの、色彩とか、また枝振りとかこうして初めて、なら多いからばっかり、多いだけが脳ではない。やっぱりあの適当な、やはり枝振りとか色彩とかというものが、まず考えられなきゃならない。
 同時に、やはり花には花の位置がありますから。それをいうなら、盛るは何にしろ、生花にしろ、なら心添え体なら、心添え体というその芯になるところの、やはり手解きを受けて、そしてそれに、沿うたいれ方が出来る時に、もう誰が見ても素晴らしいなぁということになるのじゃないでしょうか。
 私が善導寺で見た、その花の限りでは、こりゃかえってお供えせん方がよかちゅう感じにいれちゃったです。今あそこはあの、お花をする人が奥様も出来ん、しなさらんし、若奥様もなさらんわけです。だから、合楽が持っていったとばそのまま、ポンとこういれてあるわけです。
 それがね、ですから、もうあげな(だぶ、だぶぶつ?)してしもうちから花いれるなら、もう見掛けもかえってあの見苦しいもんだなぁと私が、その時思ったことでしたけれどもね。まぁお互いの信心がそういうところじゃないだろうか。もうとにかくあの、いうならばお生花ならお生花、盛り花なら盛り花、なげんなら投げ入れに、その本当にあの稽古が出来ていれたら、誰だってこりゃおかしか、とかいけんとかちゅう者はおらんと思うです。
 まぁ素晴らしいなぁ、花が素晴らしいなぁ。私達も稽古しようかちゅうごたる気になると思うです。ところが、ほんな持って行ったとをそのままドンとこう、坪の中に入れておるようなことだからです、かえって信心が見苦しいものに見えたり、ね、非難を受けるもとになったりといったようなことになるのじゃないでしょうかね。一つ、それにはまず基本であるところの、心添え体ということをですね、一つ考えてみたら良いですね。
 心は心、たいは五体と頂いたら良いですね。いうなら心と体。ね、添えということはおかげです。やはり、あのお添えおかげをね、おかげがやっぱ頂きよらなければ皆が、あの何時まっでんあげん貧乏しよるござるじゃんの。何時まっでん家はガタガタしござるじゃんのではね、あのやっぱついて来ません。
 やっぱなるほど信心しござるけんで、いわゆるその添えのおかげというものが頂けて、そしてそれに、なら心と体とかね、あの内外共に段々出来て行くという、そこんところに、私はまたせっかくの沢山な花の材料を頂いて帰っておられるのです。持っておられるのですし、その菊の花を持っておられるのですから、ただそれ持って帰ってポンとうちの坪の中にいれただけではね、かえってその信心が見苦しいというようなことになる。やはり傾向があります。
 ですから、本気でやはり、その一本一本の、まぁ気取りというですか、その色彩感覚というか、ね、それにはやっぱり一つの形というのがちゃんとこう決まってるんですから。だから、これを稽古なさってどんな花でも、いけこなせれる。いけ上げられれるおかげを頂いたら、皆が素晴らしいなぁというようなことになるのじゃないでしょうかね。どうぞ。